2020-02-14 第201回国会 参議院 本会議 第5号
平成十一年には宮澤喜一大蔵大臣の下で大蔵政務次官として初めて政府の仕事を経験をさせていただき、その後、内閣府副大臣、防衛大臣、内閣府経済財政担当大臣、農林水産大臣、文部科学大臣と、多様な経験を政府において積ませていただきました。それぞれの場所でまさに一所懸命、全力を尽くして仕事をする中で、官僚の皆さんの国を思う熱い気持ちに触れることができたのは何よりの収穫でありました。
平成十一年には宮澤喜一大蔵大臣の下で大蔵政務次官として初めて政府の仕事を経験をさせていただき、その後、内閣府副大臣、防衛大臣、内閣府経済財政担当大臣、農林水産大臣、文部科学大臣と、多様な経験を政府において積ませていただきました。それぞれの場所でまさに一所懸命、全力を尽くして仕事をする中で、官僚の皆さんの国を思う熱い気持ちに触れることができたのは何よりの収穫でありました。
二十三年前になりますけれども、平成八年一月、橋本龍太郎内閣の久保亘大蔵大臣の下、今議場におられます山崎正昭前参議院議長と共に大蔵政務次官を拝命し、金融危機の始まりと言われた住専問題について、六千八百五十億円の税金を金融機関に投入するという、国民の九割が大反対する中で、その理解をいただくことに奔走いたしました。
また、第一次橋本内閣の大蔵政務次官、野田内閣の経済産業大臣として国政の中枢に参画され、その卓越した政治手腕を遺憾なく発揮してこられました。 このように、鉢呂先生は、高い見識と豊かな政治経験に基づき、我が国の議会政治発展のため多大な貢献をしてこられました。
この間大蔵政務次官、衆議院法務委員長、外務副大臣、内閣官房長官、自民党政調会長代理、厚生労働大臣などの職を経ながら全力投球して参りました。 折しもバブル崩壊後の「失われた十年」は二十年以上に及び、「閉塞感」はアベノミクスの奏功まで蔓延し続けました。
その後、政府では大蔵政務次官、内閣官房副長官、参議院では議院運営委員長、参議院自民党幹事長などを務める機会を頂戴いたしました。 また、皆様方の御推挙を得て、平成二十四年には第二十九代参議院副議長、平成二十五年には第三十代参議院議長に就任させていただきました。その間、公正中立を旨として、本院の円滑な運営に力を尽くしたところであります。
この間、片山先生は、大蔵委員長、予算委員長等の重責を担われ、また、宮澤改造内閣の大蔵政務次官、第二次森改造内閣の郵政大臣、自治大臣、総務庁長官に続き、省庁再編を経て、第一次小泉第一次改造内閣に至るまで総務大臣として国政の中枢に参画され、その卓越した政治手腕を遺憾なく発揮されてこられました。
橋本内閣で大蔵政務次官、小泉内閣では内閣官房副長官を務められました。自由民主党においては参議院幹事長を務められ、参議院では平成二十四年に副議長、そして二十五年八月から議長を務められています。 参議院には、国民から、良識の府、熟議の府であることが求められており、また我が国の将来に関わる国論を二分するような重要な問題については、再考の府として衆議院の拙速を戒める役割があります。
平成七年大蔵政務次官を皮切りに、文部政務次官、総務副大臣、総務委員長、議院運営委員長、平成十八年内閣府行政改革担当大臣として初入閣いたしました。 党においては筆頭副幹事長として当時の武部幹事長をお支えした記憶もあります。 中越地震の時は、すぐにヘリコプターに乗り、ふるさと前橋、みなかみの上空を通り新潟に駆け付けた事を思い出します。
私が実は大蔵省にいたときに大蔵政務次官で、ちょうど中小企業予算をやっておったときなんですけれども、尾身先生に毎日呼ばれて御指導いただきました。 自民党の中小企業予算の命は、姿論、姿なんだ、去年より一円でも予算がふえていりゃいいんだ、ふやさなきゃいかぬのだ、中身はどうでもいいんだと。よく御存じだったわけですよ、中身を。
大蔵政務次官とか外務副大臣とか、さらには内閣官房長官、衆議院では法務委員長ということで、かなりばらばらな経歴をお持ちでございます。同時に、安倍総理のお友達ということで、官邸の距離の近さ、これは厚生労働大臣としては余り近いのはウエルカムじゃないんですね。遠い方がいいわけです。これは余り評価に値しない。 そういう中で、産業競争力会議、ここが横紙破りを再三やっております。
ただ、私の感じとしては、私、まだ金融庁が分かれる前に大蔵政務次官、それから、分かれましてから金融再生委員長というのもやらせていただきましたが、当時は、やはり法務省の会社法制と常にぎくしゃくがあったというのが実感でございまして、そのことがいわばこの制度のユーザーにもいろいろな、何というか、響きがあったんだと思います。
私は、大蔵政務次官、まだ政務官、副大臣の前でございましたので、宮沢大臣にお仕えしたころですから九九年から二〇〇〇年なんですが、初めてこの例外の方に日本が踏み出すとき、これは実はシンガポールなんです。
○国務大臣(林芳正君) もとより農林水産省の所管ではございませんのであくまで私の個人的な見解ということですが、実は九九年から二〇〇〇年にかけて、私は、当時まだ財務省が大蔵省の時代に、総理を一度辞された後、大蔵大臣に就任された宮澤大臣の下で大蔵政務次官というのをやっておりました。
私は、かつて、消費税が三%から五%に上がる最終判断をしたときの大蔵政務次官を務めさせていただきました。国民に増税をお願いするという仕事は、政治家として、非常に厳しく、つらいものであり、避けて通ることができるのであれば、誰もが避けて通りたいと思うところであろうと思います。
大蔵政務次官を皮切りに、自民党財政部会長、衆議院大蔵常任委員長、初代財務副大臣を歴任してきました。大蔵委員長の時はバブル崩壊後の金融危機で、日本発の世界金融恐慌を起こさないという固い決意の下、六十数本の法案を処理しました。財務副大臣の時には二度予算編成をし、戦後初めての診療報酬の引き下げ等を担当しました。
○林芳正君 実は、大蔵政務次官のときの記憶ですと、当時はそういうのがなかったんで、例えば政務次官と副総裁が会うとか、大臣と総裁が会うというと、会うだけでニュースになって、わあっとこうなっていて、そのころからすると、経済財政諮問会議とか、今おっしゃった月例のときに会って、そこで二言、三言いろんなコミュニケーションを取るというのが実は非常に大事で、それをやっても全然だれも不思議に思わないという状況というのはとても
中川一郎大蔵政務次官も五月十二日の大蔵委員会で、交通関係ということになってくると何かというと、道路のほかに鉄道、航空関係、海運も入ってくる、その範囲内での使用に振り向けたい、交通関係の一般財源として使いたい、自動車財源で求めた一般財源ではありますけれども、道路に使うと同時に、補完となるべき交通体系にも使うことが許されるのではないか、またこれからの交通政策はそう持っていくべき。
それから、当時の中川政府委員、中川大蔵政務次官の御説明としまして、あわせて、全体が当時五千億でございますが、そのうち四分の一の千二百五十億は地方にお渡しするわけでございますから国に残りますのは約三千七百五十億ということになります、その中で道路に振り向けなければならないものは約三千億と見込まれてございます。これが約八割の当初の根拠ということで考えております。
私は、この二十五年間に、衆、参両院の大蔵委員長、大蔵政務次官、大蔵大臣を務めさせていただき、日本経済、税財政の健全な姿を実現させるべく、自分なりに全力を尽くして参りました。残念ながら現在の状況は、これに応えられる姿になっていません。社会不安を醸成する大きな原因にもなっていることも否めません。私はその責任の一端の重さを強く認識しており、今後とも私のできる中でその再建に尽くす覚悟であります。
この間、藤井先生は、本院においては、大蔵委員長等の重職を担われ、衆議院においては、議院運営委員長及び予算委員長の要職を歴任され、また、第三次中曽根内閣の大蔵政務次官、第二次橋本改造内閣の運輸大臣として国政の中枢に参画され、その卓越した政治手腕を遺憾なく発揮してこられました。 このように、先生は、高い見識と豊富な政治経験に基づき、我が国議会政治発展のため、多大なる貢献をされてこられました。
○渡辺国務大臣 これは預金保険法改正法案の審議をやっているときの当時の林芳正大蔵政務次官の答弁にある表現でございますが、「具体的に例えばということで申し上げますと、ほかの金融機関の連鎖的な破綻が発生するような場合ですとか、連鎖的にほかの金融機関の資金繰りが困難になる場合、またあるいは大規模な貸し出し抑制や回収等資産の圧縮を進める動きが生じるようなおそれがある場合、こういうことが例示としては挙げられる
もう一点、これは十年前ですが、自民党行革推進本部が決めた特殊法人改革第三弾、こういうのがございまして、渡辺大臣は当時一年生議員、塩崎官房長官が大蔵政務次官の当時でございましたが、ここで見事に渡り鳥の禁止をきちっと打ち出しておられるんですよね。 こういうふうに書いてあります。
私は、大蔵政務次官もやらさしていただきましたし、内閣府の副大臣もやらさしていただきました。そういう点で、財務省はどういう、内閣府と全く同じような考え方でいいのかどうか、財務省の方から御意見をお聞かせいただけませんか。